ファッション専門学校でクリエイティブな生活を

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ファッションとは?

ファッションについて勉強しようとした方なら、「ファッションの語源はファッショである」というお話を聞いたことがあると思います。
ファッショとは団結を指す言葉で、ナチスが掲げた「ファシズム」の元にもなっている言葉ですね。
鉤十字を付けた「ファッション」を身にまとい、所属を示して、「ファシズム」の一端を担っている…そう話すともっともらしくも聞こえるでしょうが、実はこれはウソです。

真らしく話されたのは件のファシズム政党、ナチスが制服デザインのため当時の先鋭ファッションデザイナーを雇い入れて党専属のデザイナーとさせ、制服のデザインをさせたために、「ファッションとはファッショのことだ」と揶揄めかした説が流布された、という経緯があるんですね。

僕はこういう風説が流布されたのは、ファッションとは他人に見せるものだという考えがあるせいだ、と思っています。僕はそうではないと思っています。

古来よりファッションには「自己」というベクトルがありました。

儀式とファッション

例えばアステカにはテスカトリポカという神を祀るためのお祭りがありましたが、このお祭りは生け贄を必要とするものでした。生け贄は祭りの日には生きたまま胸を切り開かれ、心臓を取り出され生け贄に捧げられます。

しかし、生け贄に選ばれた人は逃げ出したりすることもなく、むしろ喜んで身を捧げたと言われます。

それは「神と同一化する神聖な役目」、という名誉があったためです。

生け贄は祭りの一年前に選ばれるのですが、選ばれた人はジャガーの格好(アステカではジャガーの戦士は最も誇り高いものとされています)をさせられ、神がまとうものと同じとされる宝石を身につけて生活し、自らを神と同一になる、つまり生け贄に最もふさわしい者である、と納得ずくで捧げられていったわけです。

要するに自らのイメージを神様の概念に押し上げる、自己のイメージの補強のためにファッションが使われていたわけですね。

自己に示すためのファッション

ほかにも、例えばインディアンが頭につける羽飾りですが、あれは自ら槍をなげて仕留めたコンドルの羽しか使ってはならない、という掟があります。

つまり、優美な羽飾りをつけていることは、そのまま強さを表すわけです。

しかし、インディアンの部族には、上下関係というものがありませんし。

強いから他人に頼られる、尊敬される、ということはないのです。

つまり強さを他人に示すことに意味はありません。

強さとは、他人に誇示するためのものではなく、自らが誇り高い戦士であることを自らに示すというセルフイメージの観点で成り立っているわけです。

まとめ

以上の観点を見てみると、ファッションはもちろん人に見せるものでもありますが、セルフイメージにとって果たす役割も大きいのだと、様々な地域でみなされていたことがわかるでしょう。

私もそう思っています。たとえ世界中から自分以外の人がいなくなっても、私は私のために、着たい服を着ることでしょう。

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